さめないゆめ・・・

HSP・内向型人間が綴るブログ。日々の雑感、自分が自分であること、人生について、本や映画の感想(イギリス、ヨーロッパ多め)などについて書いています。

探究と郷愁

今、聖書を少しずつ読んでいます。(旧約の詩編まで来ました)憧れのヨーロッパの文化を知るためには、これは読んでおかなければと思ってのことでした。その考えはやはり正解で、読んでいると名前のルーツとか、ユダヤの掟とかが分かって来ますね!(先日、記事にしたイカボード先生の名前の由来とか)

 

聖書そのものを読むのは今回が初めてですが、ユダヤ教キリスト教の大まかな内容は宗教の概要本などで知りました。聖人とかもたくさんいますよね。パウロとかペテロとか十二使徒とか・・・

 

そんな感じでユダヤ教キリスト教を勉強してはいるのですが・・・その神観・思想・哲学・教義は自分が馴染んできたものとはかけ離れていて、凄く新鮮味があるのですね。新しく知る度に「こんな考え方があるんだー!」って。一時、苦しんでいた時、改宗も考えたことがあるほど憧れていました。

 

でも・・・不思議なんですね。

 

新鮮味や驚き、憧憬は確かにあるんです・・・が。ユダヤ・キリストの信仰、歴史、教義というものが自分と繋がってこないんですね。自分自身、そして自分の先祖達とリンクするものが感じられない。

聖人の名前だって、そのものは聞いていなくても日常ではよく見聞きしているんです。欧米の人達の名前は聖書由来のものが多いので(パウロはポール、ペテロはピーター、アンデレはアンドリュー) 

なのに・・・私とユダヤ・キリストの間には分厚い壁があり、深い溝がある・・・断絶されてしまっているんです。地続きになっていない。部分部分は共感できる教えもあるのですが、きっと魂レベルでは理解出来ていない。

 

私にとって、ユダヤ・キリストというのはどこか遠い異国の教えなんですね。

 

一方・・・私は大学の卒論で般若心経をテーマにしました。ちゃんと仏教を勉強したのはそれが初めてなんです。その時、お釈迦様の十大弟子の一人、智慧第一のシャーリプトラも初めて知りました。

社会人になって手塚治虫先生の「ブッダ」を読み、仏教関連の人名・地名もそこで覚えました。(モッガラーナ、ダイバダッタ、アーナンダ等々・・・)

なのに、仏教に触れた中で聞いたもの、見たもの・・・皆どこか懐かしいんです。サンスクリット語パーリ語の発音は難しくて一回見ただけじゃ分からないのに・・・でも、とても懐かしいんです。

 

まるで、小さい頃から、あるいは生まれる前から知っているような響きを感じるんです。

 

逆にちゃんと仏教を勉強しようとしてもどこか新鮮味が感じられない、ありきたりに思えてしまう。「ああ、もう知ってるわ」みたいな(笑)

 

同じ手塚先生の「火の鳥」も最初読んだ時は衝撃を受けました。でも、新鮮味は余りなかったような感じがします。それは、自分の心に新しく入ってきたものではなく、記憶に深く埋もれていた何かを掘り起こされたような感覚でした。手塚先生の哲学・思想も、何となく懐かしい・・・昔から触れ続け、知っているような気がしてなりませんでした。

 

憧れ、探究を覚えるのはユダヤ・キリスト・・・というよりアブラハムの宗教でしょうか。

 

安心、郷愁を覚えるのは仏教ですね。きっと神道も同じだと思います。

 

今はヨーロッパ文化に夢中ですが、そのうち日本の文化もちゃんと勉強したい・・・いや、しなければならないような気がします。